2010年9月10日金曜日

久々の更新となってしまいましたが

こんばんは。
 
前回の更新から一ヶ月以上経過してしまいました。
色々と思うとことがあるにもかかわらず、
自分なりの答えが出せずにいます。
 
flatplat2010が閉幕して完全に抜け殻であったことは
間違いありませんでした。
それによって、緊張感が極端に低下したことも事実でした。
 
でも、それ以上に僕に大きな影響を与えたのは、
「命」に関することでした。 
 
皆さんもご存知のように大阪で2人の子供が亡くなりました。
いや、あえてこの言葉を使わせてもらいます。
2人の子供が母親に殺されてしまった、と。
しかも、餓死というかたちで。
 
母親を捜し求める子供の声が聞こえていたそうです。
冷蔵庫の内部には多数の指紋が、きっと食べ物を探していたのだと思います。
最後には、2人は寄り添うように息絶えていたそうです。
 
色々と事情があったのでしょうが、
どんな事情であっても この現実を肯定することにはならないと思います。
「しょうがない」とは絶対に。
 
僕は「命」は平等であると信じていましたし、
今でもそう信じたいと思っています。
 
ただ、その一方で他者の理不尽な振る舞いによって
本人が決して望まない形で一生を終えざるを得ない命が多々あることも否定できません。
 
2歳、3歳で亡くなる、いや殺されてしまう子供たちは
一体 何のために生まれてきたのでしょうか?
そのことに対する自分なりの答えが出せません。
 
どなたか、この「問い」に対する
自分なりの答えをお持ちの方はぜひお聞かせいただきたいです。
  
よろしくお願いいたします。

1 件のコメント:

ゆなる さんのコメント...

こんばんは。

この書き込みを見て
考えたことを書き込みます。


この子たちがなぜ生まれてきたのか?

この世界におけるすべての事柄において
“偶然”はなく“必然”であると考えます。
この事件において起きたことも
すべて“必然”であると考えます。

この“必然”はあまりにも悲しいものですが、
この犠牲があったことでこれからの未来に
良いこと悪いことが起こるでしょう。

良いことは、
同じ過ちを二度と起こさないように
周りの人間たちがネットワークを組み
地域ぐるみで子供守ろうとする動き。

悪いことは、
負の連鎖反応。
同じようなことがまた起こるかもしれません。

この犠牲によって
できれば良いことが起こること
願うばかりですが…

自分としては反面教師であはりませんが
絶対に何があっても子供を
放棄することはしないと
誓う機会になりました。

こんなんで答えになりましたでしょうか?