2010年2月1日月曜日

祖母の記憶

昨日は祖母の17回忌でした。
 
祖母がなくなったのは僕が中学三年生の時。
高校受験の前日でした。
 
僕が中学校2年生の頃から認知症の症状が現れ、
直方の施設に入所していました。
 
月に数回自宅で週末を過ごすようになっていました。
 
その日のことはうっすらですが覚えています。
朝になっても祖母が部屋から出てこず、
部屋のドアを開けようとしてもつっかえ棒のためなかなか開かず。
当時 結構認知症が進んでいたため、
被害妄想や幻聴などで部屋を完全に閉め切るようになっていたのです。
 
部屋を開けると、
祖母は布団の上で倒れていました。
 
それから救急車で病院へ。
「脳出血」との診断でした。
一命を取り留めたものの意識不明。
 
当時は全く分かりませんでしたが、
今思えば 脳幹出血だったのかもしれません。
 
その後転院し、
時間があれば父と一緒にお見舞いに行っていました。
 
そして、2月2日。
帰らぬ人に。
 
祖母の記憶・・・・・
認知症の症状が現れる前の印象はあまりハッキリしていません。
元気で家に居るのが当たり前だったので、
それほど祖母の存在を意識していなかったからかもしれません。
 
祖母はよくお小遣いをくれました。
ティッシュにくるんだ500円札。
当時、まだ500円札があったのです。
確か、岩倉具視だったような。
なんとなく、長門裕之に似ていたような。
 
両親が外出して遅くなるときなどは夕食を作ってくれました。
味はどうだったかな・・・・。
 
父は祖母のこともあり、
ずっと転勤を断ってきたそうです。
 
祖父は父が中学生の頃亡くなったそうです。
それから母一人、子一人で苦労して生活してきたから、
きっと母一人にしたくなかったのだと思います。
 
そんな祖母と父。
祖母が亡くなった時には父が転勤を終えて帰ってきていたことが
唯一の救いだったように思います。
 
「認知症」。
これは本当に厳しいです。
記憶を失うことは、
自分を失うこと、
世間との繋がりを失うことと同義であるかもしれません。
 
今までの数十年の人生で培った自分という人間、
そして世間との繋がり。
 
それを一日一日失うとしたら・・・・・・・
 
映画「明日への記憶」。
ぜひ、観てください。

2 件のコメント:

ゆなる さんのコメント...

同じく祖母の記憶


自分は婆ちゃんっ子でした。
小学生の低学年まで婆ちゃんと一緒に寝ていましたし、よく一緒にお風呂も入っていました。

無口で穏やかで、家族で会話をし祖母の話になっていても全く参入せず…


婆ちゃんのことを誰が一番好きかといわれると自身を持って自分が一番と言えます。

昔映画で「サトラレ」というのがありました。内容は心の中で思ったことが周りにいる人たちに伝わってしまい、またサトラレはIQも高いため国をあげて本人に「サトラレ」と気づかないようにする話でした。

今まで映画で泣くことはありませんでしたが、そのおばあちゃんが亡くなるシーンでおお泣きしてしまいました。

そのときに自分は婆ちゃんっ子なんだと気がつきました。

そんな婆ちゃんも4年前他界しました。

以前からパーキンソン症候群を患っており、最終的にはびまん性レヴィ小体病と診断され、嚥下障害による誤嚥を防ぐ為に胃婁を作った直後に急変しそのまま…


始めて身内の不幸でした。


パーキンソンと違い認知症を合併しており、その認知症の対応で母親と大喧嘩したこともありました。

身内としてお世話をすると、認知症に対するマニュアルなどを教えてもそんな風には対応できないみたいですね。


今でも実家に行くたびに婆ちゃんの遺影に向かってお参りしています。

吉住 浩平 さんのコメント...

ゆなるさぁ~ん

連続コメ、あざぁ~す!!
もう4年になるんですね。
時が流れるのは早いです。

自分とは異なる世代の方と一緒に暮らすと
色々と感じることがありますよね。

祖父母にしても、
子どもにしても、
親にしても。

何らかの病気・障害を抱えている人のそばで
暮らすことは、
僕が考えている以上に喜怒哀楽に満ちているのかもしれません。